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「あの頃の俺とあのゲーム」、レトロゲーム文献書評などなど
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「(ビデオゲームはいつも悪役だった(その1)」からの続き・・・)

世界中に日本のビデオゲームが溢れているにもかかわらず、日本人である僕らは、ビデオゲームの文化を理解していない。誇りに思っていない。

アメリカで才能のあるクリエーター達は、皆大学で学び、ハリウッドを目指すと言う。

本来、日本のビデオゲームにおいてもそうあるべきだと思う。
しかしながら、日本では学ぶべき書物や学べる環境が少ない。

年代順のゲームリストやゲーム攻略、レビュー的なものはあっても、学術的にゲームを掘り下げた書物はほとんど見当たらない。まともなのは「それは「ポン」から始まった」(通称「それポン本」)くらいか。
ゲーム製作者、ゲーム音楽の作者の名前は一部のマニアのみにしか知られていない。そのゲームの作られた背景など知るよしもない。
大学でビデオゲームに関する講義が行われることはニュースになるほど稀だ。

つまり、ビデオゲームの歴史、文化はたれ流しにされ、留めることを許されなかったのである。

すべては、深くビデオゲームに関わることは悪だと無意識に教育されてきたからだ。

世界的に日本が誇れる産物ビデオゲーム。
その文化を守る為にも
「ビデオゲーム=悪」という概念こそが「悪の元凶」だという認識を持たねばならない。

優秀なゲームクリエーターを育てる為にも、悪の観念を払拭し、ビデオゲームを隠れた趣味とさせないことが大切だ。

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僕が子供の頃もそうだったが、今でもよく聞く台詞がある。
大抵の場合その台詞は親から子に発せられる。
「また、ゲームやっているのか・・・・」
「ゲームばっかりやっていないで勉強しなさい。」
「ゲームセンターにばっかり行ってると不良になるよ。」
そんな類の台詞だ。
僕らは言われつつも懲りずにビデオゲームを遊ぶ。
それには僅かながらの後ろめたさがつきまとう。

最近では右脳を鍛える・・と謳ったゲームが大人気だが、以前は反して、ゲームをやりすぎると脳が退化するというゲーム脳問題が提起された。
さらには狂気的な若い犯罪者がでると彼らの好みだった暴力的なビデオゲームが槍玉にあげられたものだ。。

そう、ビデオゲームは悪の元凶だった。

例えば重要な場、就職時における面接などで、趣味を問われ、映画と答える人はいても「ビデオゲームです。」と答える人は少ないのではなかろうか?
面接官に悪い印象を持たれてしまうと感じているからだ。
無意識のうちにゲームは悪いことだと認識してしまっている。
そして罪悪感がゲームへの関わりを中途半端にさせてしまう。

ある意味これは残念なことだ。

(「ビデオゲームはいつも悪役だった(その2)」に続く)


(「ストリートファイターIIの罪(その2)」からの続き)

 インベーダー誕生史から点数を稼ぐことが主な目的だったビデオゲームは、相手に勝つことが目的となった。全国のゲームセンターのハイスコアを集計していたマイコンベーシックマガジン(通称ベーマガ)「CHALLENGE HIGH SCORE!」も意味を成さなくなりつつあった。全一(全国1位)常連ゲーマーも姿を消し始め、1999年にはその集計の幕を閉じた。

 ゲームセンターの客層が変わりはじめた。

 従来、ゲームセンターには、1人でふらっと入っても100円さえあれば遊べるものが数多くあった。しかしながら店には対戦格闘ばかりが置かれ、技の出し方さえもわからない初心者はコインの投入さえも躊躇せざるを得ない状況になった。一般客とマニアが共存してきたゲームセンターは、対戦格闘マニアばかりになっていった。

 以前と客層は違えどインカムも増え、ゲームセンターも水を得た魚のごとく活気付いて安泰のように思えた。

 だが、相手がいてこその対戦。対戦格闘ゲーマーはより強い相手を求め、他のゲームセンターへ移動し、強いプレイヤーのいないゲームセンターは廃れていった。旧来からのゲームセンターには廃業になる店も少なくなかった。

 そして現在、技の出し方が複雑化したものや、3D化された対戦格闘へと受け継がれていくことになるがインパクトは弱く、マンネリ感さえ覚える。

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 偉大なる大木。
 大木は敬われ、村の神と崇められることがある。
 しかし大木の日陰で枯れていく草木があるのを忘れてはならない。

 スト2は輝かしい賞賛の裏で、古き良きアーケードゲーム文化を滅ぼした大罪を背負った。

 
(「ストリートファイターIIの罪(その1)」からの続き)

 スト2に代表される対戦格闘ゲームは人対人のゲームである。勝者はそのままゲームを継続できるが、敗者はゲームオーバーになり再度100円を投入する必要があった。プレイヤー側の「うまくなればゲームが長くできる」というルールを守る一方、店は高いインカムが期待できた。
 その頃各店は「シューティング1台置くスペースがあったら、スト2を置け」という風潮があったという。当時スト2の基板は20万円ほどするものであったが、店に対戦台を置けば2週間~1ヶ月程度で回収できるほどの売上げがあり、店に置きたくてもゲーム基板自体の生産が追いつかず入手困難であった。ゲーム各社は二番煎じを狙って、対戦格闘ゲームを製作するようになった。類似品訴訟問題(DECO「ファイティングヒストリー」)もあったほどである。
 そして本家カプコンも、うちが対戦格闘ブームの火付け役だとアピールするが如く続編等を出すようになった。

 その頃になると、店には対戦格闘ゲームがあふれ、シューティングゲームなどは店の隅に追いやられた。シューティングゲームの新作が出ても、それを置く店も少なくなってきた。シューティングゲーマーとしては特定の店に行かないとプレイできないゲームに、攻略欲も減少した。

 良作R-TYPEを作った、IREMをはじめ、各社がシューティングゲームの製作を控えはじめた。

 ・・・・そしてあのショックな出来事は起こった。

 1994年東亜プラン倒産事件(別に事件でもないが)である。

 東亜プランと言えば、飛翔鮫、究極タイガー、鮫!鮫!鮫!、達人など、シューティングゲーマーを唸らせるシューティングゲームを提供してきた会社である。

 シューティングゲーマーは皆1つの時代の終わりに涙を流した。

 (「ストリートファイターIIの罪(その3)」に続く)

 1991年カプコンよりストリートファイターII(以後スト2)が発売になった。ゲーム業界における対戦格闘ブームの始まりである。

 スト2以前、ゲームといえば、シューティング、アクション、テーブル(麻雀、オセロ等)、パズルが主なものだった。いずれのゲームもプレイヤーのスキルがあがると、プレイ時間が長くなるものが多かった。エンディングまで1時間くらいかかるものや、シューティングなどのループゲーム(エンディングまでいくと難易度のあがった2週目ができるもの)は、100円で数時間遊べるものも存在した。

「うまくなればゲームが長くできる」

 これはプレイヤー側からみると当たり前のことであり、ゲームを攻略する上でモチベーションの1つでもあった。しかし、店側にとっては100円で長く遊ばれてしまうとインカム(収入)が減る。長く遊ばれない為には難易度を上げるしかないが、難易度を上げると逆にプレイヤー離れを招くことになる。店側にはそんなジレンマがあった。

 そんな状況の中スト2が現れた。

 (「ストリートファイターIIの罪(その2)」に続く)
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